今年の頭、確か2月頃だったと思うけれども渋谷に行く機会があった。会社の同僚と一緒に。
わたしの用事のためにわざわざその同僚は同行してくれた。
渋谷に行き慣れないわたしは、人の多さ、無軌道さと何とも言えない尖った喧騒に気おされてしまい、
同僚が一緒に来てくれて、本当に良かったと思った。
その日、スクランブル交差点で信号を待っている時、デモが通った。
正直、そのデモの主張は忘れてしまったけれどもLGBTQ+系のデモだったような気がする。
それを見ていた同僚が一言、こういう風に行ってしまうと良くないだろうけれど、と言い添えた上で、
「ああいうことして何になるんですか?」
「何が変わるんです?」
そう、わたしに聞いてきた。そう言えば、彼女は選挙に行かない人で。
選挙に行かないのだから、デモの意義も見出せないだろうな、と思ったわけだけれど。
何故、その時の話を今蒸し返しているのかというと、
あの時、わたしは彼女の言葉に何も言い返せなくて、それがとても悔しかったから。
明日に迫る選挙の日を前にして、その悔しさが何度か過っていったから。
「何が変わるの?って思いながら何もしないでいて逆に何なら変えられると思ってるの?」
稚拙でも、それぐらい問えば良かったけれど、それも出来なかったことが凄く悔しかった。
正しいか否か、検証しているわけでもなく、わたしの中での感覚でしかないけれども
均一に与えられ、そして誰しもが当たり前に、年齢、国籍、セクシャリティとジェンダー、
生育環境、それらに左右されることなく行使できるものが「権利」で(最近その権利行使さえ危うくするような言論があって恐い)、
何らかの要因、それは国籍であったり性別であったり様々だけれど、何かしらが枷になっていて、
一部の者しか自由に行使できないものが「義務」だと思っている。
なので、このわたしの中の理屈で言えば、選挙というのは「義務」だ。
何故なら、「日本国民で満18歳以上であること」が基本的な積極要件だから。
なので、例え長く日本に住んでいて日本語の読み書きに不自由が一切無い外国人には選挙権が無い。
日本国民であっても、例えば明後日28日が誕生日の人には選挙権が無い。
それであれば、選挙は「義務」。偶然ながら、日本に、日本人として生まれて育ち、
日本人であることに疑問を呈する必要も無いわたしの、果たすべき義務。
だから、あの日、同僚の言葉を聞いた時の不快感もそれに言い返せなかった悔しさも、
そもそもこの「義務」を果たすことを放棄しているくせに、という気持ちが発端だったと思う。
わたしもそれなりの年齢なので、複数回選挙を経験している。
この複数回の選挙を通して、この国が大きく変わった、良くなった、という感覚は無い。
むしろ悪くなっている、とさえ感じる。それでも、わたしは選挙に行っている。
今回の衆院選も選挙に行ったところで、目の前の物価高がすぐに改善されるわけでもなければ、
お給料が凄く上がるわけでもないし、同性婚の法制化、夫婦別姓、ガザにおける停戦への働きかけ、
恐らく暫くは何も変わらない、か亀の歩みだと思う。
でも、選挙は今目の前の変化ではなく、将来の国への国民への投資だ。
人の命が選別され、弱い者が唾棄されて、若者が徴兵されるような国になるのは、嫌だ。
だから、私は選挙に行く。
同僚は若い頃出来ちゃった婚をして、早い内に離婚して、
そしてフリーランスで仕事をしながら子供をひとりで育ててきた人だ。
若い頃に産んだ子だから、成人済みだ。
でも、その子も選挙に行かない。
あの日、ねえ、あなたの息子、もしかすると兵隊に取られるかもしれないよ?その時どうするの?
そう言ってしまったら、どうだったろうか。
選挙、行こうね。
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